2022年11月11日、村田兆治さんがこの世を去りました。プロ通算22年、オリオンズ一筋で通算215勝、マサカリ投法で世を席巻した村田兆治さん。
今回は、村田兆治さんの野球人生を振り返りますよ。
「マサカリ投法」村田兆治さんの野球人生
甲子園出場は叶わずも、高校時代から才能を発揮
小学5年生の時に父に連れられて広島市民球場で観戦したのをきっかけに、プロ野球選手を志すようになった村田兆治さん。初めて生で見るプロの試合に鳥肌が立つほど興奮し、以降プロ野球選手以外の将来を考えられなくなったそうです。
福山電波工業高校時代は、当時はスピードガンがなかったものの152~153キロは出ていただろうと言われるほどの速球を投げており、その速球を武器に県内屈指のピッチャーとして知られるようになりました。
強豪ひしめく広島県の中で、甲子園出場こそならなかったものの、複数球団がドラフト1位での指名を検討するほど、村田兆治さんは高校時代から名投手でした。
背番号29、オリオンズのドラフト1位に
1967年のドラフトでオリオンズから1位指名を受け、入団。村田兆治さんは当時大胆にもエースナンバー「18」を希望したそうですが、それは叶わず背番号は「29」となりました。
一年目は1軍で3登板7イニングと成績は振るわず、ドラフト1位の契約金を持て余してパチンコや麻雀などの遊びに明け暮れていたのだとか。
しかし、球界を代表する名投手・小山正明さんから叱咤激励を受け、別人のように練習に打ち込むようになったそうです。チームの先輩である成田文男さん、木樽正明さん、酒井勝二さん、金田留広さんら名投手達から投球術を学び、プロ2年目では6勝5完封とポテンシャルを発揮、1970年は前年より登板数が減ったものの5勝をあげて、リーグ優勝も経験しました。
金田正一のアドバイスを受け、マサカリ投法で開花
1971年、後に監督になる金田正一さんのアドバイスを元に投球フォームを大幅改造した村田兆治さん。彼の代名詞である「マサカリ投法」の原型を編み出しました。
同年は27試合に先発、キャリアハイの12勝を挙げて実力を示すと、1973年に40試合登板24試合先発、1974年に32試合登板28試合先発とチームの主力として定着。1974年はオリオンズがリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは村田兆治さんが抑えに先発に大車輪の活躍を見せました。1試合目は抑えで登板し逆転を許したものの、2・4試合目は抑えとしてチームの勝利に貢献、6試合目は先発で完投勝利、胴上げ投手となりました。
フォークボールを習得、パ・リーグを代表する投手に
人並外れた長い指を持っていた村田兆治さん、1976年頃からフォークボールを使用するようになり、奪三振を量産するようになります。1976年は46試合登板24先発で21勝18完投という驚異的な記録を残し、防御率1.82で最優秀防御率に輝きました。
1975年~1981年までは毎年二桁完投を記録しました。1979年には、32先発21完投230奪三振を記録。1981年には、31先発16完投19勝で最多勝に輝き、パ・リーグを代表する投手の一人となりました。
一方で、切れ味鋭すぎるフォークボール、更に「ノーサイン」で自分の投球を組み立てた弊害から、1976年~1979年までは4年連続で二桁暴投を記録、最終的に村田兆治さんはNPB歴代最多通算暴投を記録するに至っています。
怪我に苦しむも、復活の開幕11連勝
そんな村田長治さんでしたが、1982年に肘を故障。1983年にトミー・ジョン手術を行ったため、1982年~1984年にかけてはほとんど試合に出ることが出来ず、1983年に至っては全休となりました。
この頃の村田兆治さんは、人気が上がらないチームに不満を抱き、阪神への移籍を志願していたという情報もあります。結局オリオンズの選手として臨んだ1985年、自身開幕11戦で11連勝を記録、24登板24先発で17勝5敗を記録し、カムバック賞を受賞しました。
村田兆治さんの復活は日本における肘にメスを入れる治療法への認識を変えることにもつながりましたよ。
40歳での二桁勝利
年齢による衰えを見せながらも、1986年以降も毎年7〜10勝を挙げ続けた村田兆治さん。1989年には通算200勝を達成、同年7勝ながらも39歳にして三度目の最優秀防御率のタイトルを獲得しました。
40歳で迎えた1990年シーズンは、二度の完封勝利、自身十度目の二桁勝利を記録、同年に引退し有終の美を飾りました。1990年シーズンの村田兆治さんは選手とコーチを兼任していましたが、引退後はロッテオリオンズ、千葉ロッテマリーンズでコーチを務めることはなく、1995年から1997年に福岡ダイエーホークスでコーチを務めたのみ、コーチ歴はあまりありませんでした。
最後に
今回は、村田兆治さんの野球人生を振り返りました。2005年に野球殿堂入りとなった村田兆治さん。その偉業は未来永劫語られ続けることでしょう。村田兆治さんのご冥福をお祈りいたします。